2010年7月6日火曜日

人間開発センターに入るまでのいきさつ

人間開発センターに入るまでのいきさつ
経済成長期ということもあり運よく外資系のコンピュータ会社日本ユニバック(現日本ユニシス)に採用になりました。
技術で採用になりましたが、入社後2年足らずのうちに、運よく、人によれば運悪くという人もいましたが技術革新によりコンピュータのハード技術の仕事が少なくなり営業・システムに変わらなければならなくなりました。
その時自分から進んで営業を希望しました。
金融営業で他社のリプレース専門の部署でした。その後金融のユーザー担当部署に移りましたが、今振り返ってみるとその時の上司がほとんど取締役になっています。
別に仕事が厳しいとは思わなかったのですが、吃音のため電話がスムーズにできないことが非常に苦になっていました。
営業で数字が上がらなかったことも原因かもわかりませんが、梅田の陸橋の上で悩んでいたのを思い出します。

その時人間開発センターに転職する話がありました。
松下電器の代理店を経営されている社長が人間開発センターのスポンサーでありその会社が新たに健康機器の会社を作るからそこで生活が保証されるという話も転職の動機の一つであったかもしれません。
その会社はパナソニックの健康布団の訪問販売の会社でしたが2年ももたないうちに倒産してしまいました。
話が昔に戻りますが、
人間開発センターは学生時代からのつながりでI先生が愛知県の製本会社の人事部長になり寮を借りて吃音の方を全国から集めて働きながら勉強する会でした。
遠くは北海道・沖縄から吃音の青年が集まっていました。
私は名古屋の大学時代お世話になっていましたが、地元の大阪に就職してからは活動にはあまり参加していなかったように思います。
I先生が愛知県の製本会社で身体をこわされ、大阪の松下電器の代理店を経営されているO社長当時会長でしたがそこでお世話になられました。
新しいビルの3階を貸していただき人間開発センターを運営していきました。
当時私は土日が休みだったのでほとんど休みは人間開発センターでボランティア活動をしていたと思います。
私は地元の吃音の方に人間開発センターを紹介し、勉強会を開催していました。
O会長の信用もあり、毎日新聞の記者をされていて、オープンエデュケーションを日本に広める活動をされていた21世紀教育の会のK先生のお力で当時最高の学者・経営者を人間開発センターに紹介していただき、毎月先生方が東京からみえられセミナーを開いていました。
世界で初めて人工心臓を作られた渥美先生、松下通信の重役である唐津先生はじめ著名な先生がわずか数人の高校生にお話をしていただけました。
先生方の感化がたいせつだというI先生の指導のもとで現実離れな理想の教育を実践していました。
それとは別に日本語ワープロ一太郎の社長もこられました、その当時はまだ会社をたちあげたばかりのときでした。

健脳食で有名な東大のI先生もそのころ縁があったと思います。
I先生の紹介で登校拒否の方が徐々に人間開発センターに相談にみえられていました。
そのころ人間開発センターに転職の話がありました。
当時大企業から転職する人はまだ少ししかいない時代でした。
親にも家内にも相談せずに自分で決めて転職しました。
親・家内に非常に心配をかけてしましました。
私は清水の舞台から飛び降りる心境でした。
さきほど話したように、転職してすぐにスポンサーの松下の代理店の健康の会社が倒産してしまいました。
人間開発センターを自分の一生の仕事にするべく頑張りました。
たとえば人間開発センターのPRのために当時千里が丘にあった毎日放送に飛び込みで訪問し、ありがとう浜村淳のラジオ番組のディレクターに会いました。
早速明日スタジオに来てくれとの連絡があり、明日の番組を変更して人間開発センターの紹介をしていただきました。
当時登校拒否の方を預かって勉強している寮はニュース価値があったのでしょう。
特に戸塚ヨットスクールが暴力で更生させようとして警察ざたになったときでした。
人間開発センターは暴力とは無縁で精神面・食事面・運動と総合療法をうたっておりました。
そこが浜村淳の番組と共感するところが有ったのではないかと思います。
さて、マスコミの応援もあり人間開発センターは順調なスタートをきりました。
さて次回はそこで経験したいろいろなエピソードを書いていきます。

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